夏 (三代)

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三皇五帝 前2070年頃 - 前1600年頃 殷
夏の位置
二里頭文化の領域。
公用語 漢語(中国語
首都 陽城
xxxx年 - xxxx年
xxxx年 - xxxx年
変遷
建国 前1900年頃
滅亡前1600年頃
中国歴史
中国歴史
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中石器時代中国語版
新石器時代
三皇五帝
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(北斉)
 
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南宋

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(か、拼音: Xià、紀元前2070年[1] - 紀元前1600年[注釈 1])は、史書に記された中国最古の王朝夏后氏ともいう。夏・三代という。『史記』『竹書紀年』などの史書には、初代のから末代のまで14世17代471年間続き、湯王に滅ぼされたと記録されている。

考古学的比定[編集]

実在性[編集]

夏が存在したとされる年代の遺跡としては、宮殿を持つ都市文化である河南省偃師県(えんしけん)翟鎮二里頭村で発見された二里頭遺跡が、炭素14年代測定法により、の建国(二里岡文化)に先行していることが確定しており、また後から力を伸ばした殷は、この二里頭文化を征服して建国し、文化を継承した形跡が見られる。したがって、これが史書に伝わる夏に相当すると考える学者も存在する。

しかしながら、二里頭の都市文化は、文字の出土資料がなく、後世の概念である王朝・国家の性格を持っていたのかは不明である。中国では二里頭遺跡を文献史料が伝える「夏王朝」と同一視する研究者が多い一方、日本では遺跡と文献上の「夏王朝」を同一視することには慎重を期するのが望ましいとする見解が主流であり[2][3][4][5]、日本の考古学者宮本一夫は「夏に当たる年代に政治勢力らしきものが実在した事」が証明された事が、史書で伝えられる「夏王朝が実在した事」を証明しえないと述べている[6]。台湾在住の中国古代史学者の甘懐真国立台湾大学)は、「夏王朝の存在は疑わしい」と述べており[7]、中国の考古学者の中にも論文で二里頭文化に言及する際に「夏王朝」という単語に代えて、「夏文化」などの曖昧な表現を用いる研究者がいる[5]。また、日本の古代中国史学者落合淳思は、文献資料に示された古代夏の統治範囲は「九州」すなわち沿海地域の兗州青州徐州、あるいは長江流域の揚州荊州梁州などにわたっているのに対し、二里頭文化の政治勢力は黄河中流域を支配したにすぎないことから、伝説上の夏王朝と二里頭文化には直接の関係はないとし、「日本では、このことがよく理解されて」いるとしている[8]

二里頭遺跡[編集]

二里頭遺跡は新石器時代の遺跡で、掘り出された住居の跡から人口2万人以上と推定され、当時としては世界有数の大規模集落である。トルコ石で表現された銅爵(どうしゃく)、宮殿区、龍の文様の入った玉璋(ぎょくしょう)が発掘されている。

「宮殿区」の南門近くにある「一号宮殿」は、回廊に囲まれ、内部に広い空間「中庭」、正面に「正殿(せいでん)」を配する構造となっている。この構造は、後の中国歴代王朝の宮殿構造に近く、歴代王朝ではここで宮廷儀礼を行っていることから、宮廷儀礼もここから始まったとも考えられる。

ヒスイの龍は、二里頭文化以前に栄えた遼河流域の興隆窪文化紅山文化でも発掘されており、遼河流域の文化の影響が及んでいることが示唆される。龍は歴代王朝は王の権威の象徴として用いられていること、歴代王朝の宮殿と類似する宮殿跡などから、二里頭文化が歴代王朝に影響を与えた文化だと考えられ、二里頭文化こそ夏王朝だとする学者も多い。

また、二里頭遺跡周辺の当時の土壌に残る種子の分析から、(あわ)、小麦大豆水稲五穀を栽培していた痕跡がある。これにより、気候によらず安定した食料供給が可能となったと考えられる。これが、それまでに衰退した他の中国の新石器時代に起こった各文化との違いであり、その後の(殷)とも推定される二里岡文化へと繋がる中国文化の源流となったとも言われる。

歴史[編集]

以下は主に『史記』「夏本紀」、『竹書紀年』による。

禹の創業[編集]

夏王朝の始祖となるは、五帝の一人顓頊の孫である。帝の時代に、禹は大洪水の後の治水事業に失敗した父の後を継ぎ、帝に推挙される形で、黄河の治水事業に当たり、功績をなし大いに認められたとされる[要出典]。2016年8月に科学雑誌『サイエンス』に掲載された研究結果によると、この大洪水は紀元前1920年に起こったという[9][10][11]

舜は人望の高かった禹を後継者と考えていた。舜の崩御後3年のに服した禹は、舜の子である商均を帝位に就けようとしたが、諸侯が商均を舜の後継者と認めなかった為に禹が帝位に即位し、陽城(現在の登封市)に都城を定めた。禹は姓は(じ)と称していたが、王朝創始後、氏を夏后とした。

禹は即位後暫くの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めて来る様になった。更に禹は河を意図的に導くなどして様々な河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。 『竹書紀年』に依れば、45年間帝であったという。即位後、皋陶に政治の補佐をさせたが、皋陶の死去に伴いによる朝政の補佐が行われた。

なお「」という漢字はもと「虫」と同じ形で、毒蛇を象った象形文字である[12][13][14]。『説文解字』では「厹 (禸)」という文字に従うと説明されているが、これは誤った分析である。「禸」の部分は初期の形にはなく、後の時代に追加された意味を持たない装飾的な筆画である[15]

最初の世襲王朝[編集]

禹の崩御後、益が後継者とされていたが、益が執政に慣れていない事もあり、諸侯は禹の子であるを帝位に就けた。これが中国史上最初の帝王位の世襲とされる。帝位に就いた啓は、有扈氏が服従しなかった為に討伐を加えている。

啓の崩御後、子の太康が帝位を継承したが、『史記』に依れば「国を失った(これを太康失邦という)」と記録されるなど国勢の衰退が見られる。太康の5人の弟たちは「五子之歌」を作った。

「子帝太康立。帝太康失国、昆弟五人、須于洛汭、作五子之歌」 — 「五子之歌」、『史記』「夏本紀」より

『竹書紀年』に依れば、太康を国から追い出したのは羿であるとされる。

五子之歌は『尚書』に記されており、その内容は太康が戻らない事を弟達が恨んだ歌である。この歌より太康が遊楽に耽り朝政を省みなかった為に国を追放されたのだと解釈されている(孔安国)。

太康の崩御後、弟の中康が後を継いだ。都は斟鄩、元年は己丑、在位年数七年。在位五年秋九月庚戌朔に日食が起こり、また諸侯の羲氏と和氏が淫楽に耽っていたので、胤(胤は名前とも、国の名前とも云う)に命じ羲氏と和氏を討伐している。

『史記』には、中康の後の帝達についての事跡は特に伝えられていない。

『竹書紀年』に依ると、中康の子であるが跡を継いだ。都は帝丘と斟鄩、元年は戊戌、在位年数は二十八年。その在位八年に夏王朝を実質的に支配していた羿がその妻の玄妻(純狐氏)と臣下の寒浞に殺された。二十八年には相自身も寒浞とその子のによって弑された。

相の遺児である少康は母である后緡が都でのクーデターから逃れたため、彼女の出身地である有仍国で生まれた。

少康はやがて成長すると、その息子であるや夏王朝の遺臣である伯靡有仍氏有鬲氏などと共に寒浞や澆・を討ち滅ぼした。これを「少康中興」という。顧頡剛を始めとする「古史辨派」はこれを「『光武中興』を正当化する為に人が作った話である」という説を提唱している。

少康の子である予の都は老丘、元年は己巳、在位年数は十七年。在位八年に東海と三寿を征伐し、九尾の狐を得た。

予の子はである。都は不明、元年は戊子、在位年数は四十四年。在位二年に九夷が来訪した。

槐の子はである。都は不明、元年は壬申、在位年数は五十八年。在位十三年に東海にて大魚を得た。

芒の子はである。都は不明、元年は辛未。在位年数は二十五年。在位十二年に有易氏を討伐した。

洩の子は不降である。都は不明、元年は乙亥、在位年数は二十五年。在位六年に九苑を討伐した。

不降の弟はである。都は不明、元年は戊戌、在位年数は十八年。

扃の子はである。都は不明、元年は己未、在位年数は八年。在位八年に太陽が十つ同時に出現した。

衰退と滅亡[編集]

不降の子で廑の従兄弟、第14代帝は孔甲である。都は西河、元年は乙巳、在位年数は九年。性格が淫乱であり、自分を鬼神に擬する事を好み、人心は夏王朝から離れていったと記録され、夏王朝の徳治にも翳りが出たとされている。

孔甲の子はである。都は不明、元年は庚辰、在位年数は三年。在位元年に孔甲が滅ぼした豕韋氏を復国させた。

皐の子はである。都は不明、元年は乙酉、在位年数は七年。在位七年に泰山で地震があった。

発の子はである。都は斟鄩と河南、元年は壬辰、在位年数は三十一年。人徳に欠け、武力で諸侯や民衆を押さえ付けた事で人心の離反を招いた。又、商の天乙 (湯) を呼び出し夏台に投獄している。天乙は後に赦されると徳を修めたので、諸侯がその下に集まり、遂には桀を倒した(鳴条の戦い)。桀は鳴条に逃げたが客死した。この桀に関する伝説は殷の帝辛(紂)のそれと酷似しており、後世になって作られた伝説であるとも言われる。

近年の考古学調査によれば、紀元前1628年にテラ島の噴火により地球規模の気候変動が起きていたことがわかっており、史書にも桀年間の天候不順が記録される。合わせて、夏の遺跡である望京楼遺跡からは殷による激しい破壊と虐殺の跡があり、宮殿以外は全て破壊され、出土する遺骨も多くが手足が刃物で切断されていたり、顔が陥没するなど、深い加害のあとがしのばれる。このようなことから、実際には力によって、殷は夏にとって代わったことがわかる。遺跡からは夏人のどれも毀損された遺骨と共に殷の青銅の武器も出土する[16]

天乙は帝位に即位すると夏の血を引く者を夏亭(『史記正義』による)に封じた。代に於いては、に於いて諸侯に封じられている。

建国:黄帝の三苗征服伝説との対応[編集]

墨子』五巻には夏と三苗ミャオ族[注釈 2] に関する伝説が記載されている。

三苗(サンミャオ)時代に、夜に太陽が現れ、血の雨が三日間降った。龍が寺に現れ、犬は通りで吠えた。夏の水は氷になり、大地は裂け、水が噴き出した。五穀は変異した。天はミャオ族に克服を課した。雷が連続し、鳥をともなった者がミャオ族の指導者を射た。後、夏王朝は建国した。

このミャオ族と夏の建国に関する伝説については、他の史書での記載と対応させると、以下のようになる[17]

紀元前26世紀頃、神農時代、華夏民族の君主黄帝蚩尤(『路史中国語版英語版』によるとが姓とされる)民族の討伐作戦を行い(涿鹿の戦い)、涿鹿で破った。戦いは黄河の台地で行われた。蚩尤は濃霧を起こして華夏軍を苦しめたが、黄帝は指南車を使って方位を示し、蚩尤民族を破った。この時、他に蚩尤に味方したのは勇敢で戦の上手い九黎族[注釈 3]、巨体の夸父族だった。敗れた蚩尤民族はミャオ族と黎族に分裂し、ミャオ族は四散した。一部は代に華夏民族と同化し、一部の部族は春秋の強国であるの建国に関わった。中国では楚は異民族の国とされている。六朝時代に揚子江南部を支配していた南朝は北方民族の侵入に苦しめられており、あまりミャオ族を歓迎しなかったが、五胡による揚子江北部の破壊により、ミャオ族が大量に南朝の領域に入ってきた。漢民族と同化する事もあった。

先秦時代、苗族は、苗民、尤苗(ヨウミャオ)、三苗(サンミャオ)と呼ばれ、揚子江流域に住んでいた。長江文明に属すると見られる三苗は屈家嶺文化及び石家河文化付近を本拠地としていたと見られる[18]。三苗は母系集団であり、黄河流域の中原に依拠した父系集団の龍山文化と対立した。この龍山文化集団が夏王朝に繋がる集団と見られる。中原地域は黄帝炎帝の活躍した地域で、炎黄集団は仰韶文化後期に一度衰退し、龍山文化期に復興し三苗民族を征服した後、夏王朝を興す。黄帝の三苗征服伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものと考えられる[18]

長江中流域の屈家嶺文化(紀元前3000年 - 紀元前2500年)・下流域の良渚文化(紀元前3300年 - 紀元前2200年)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化(紀元前2100年頃 - 紀元前1500年頃)が移植されている。

後継民族・国家[編集]

夏の後継といわれ、またそのように自称した民族に以下がある。

河南省禹州市は紀元前1世紀になっても夏人の町として有名だった。『史記』貨殖列伝では、潁川(えいせん)と南陽は夏人の居。潁川は秦末期に、一部の民を南陽に移した。南陽は西は武関に通じ、東南は漢江長江淮河を受ける。宛(えん・南陽市)は亦都会で、その風俗は奇矯、職業は商人が多く、彼等は任侠で潁川と交通するので、夏人と呼ばれていると記されている[19]
杞国
杞県に在ったとされる。
越国
福建省広東省広西省からベトナム北部にかけて活動していた越人は夏人の末裔を自称していた。またの墓があると伝承される会稽山は越人の聖地でもある。紀元前333年、越国はに滅ぼされ越人は四散した。
百越
倭人・倭族は百越の一族ともされ、また越人の一部は倭国に渡来したとされる(下記「#倭国との関連」参照)。
匈奴
『史記』『漢書』「匈奴列伝」に依れば、匈奴の先祖は夏后氏であり、この夏后氏は夏王朝の一族である。名を淳維といい、夏后淳維といった[20][21]

帝の一覧[編集]

日名(諡号 在位年数 備考
文命 10? の子
- 39? 禹の子
太康[1] (不詳) 4? 啓の子、失国する。
中康 (不詳) - 太康の弟
- - 中康の子
  (無王) 40 東夷寒浞簒位する。
少康 (不詳) - 相の子
- - 少康の子、中興する。
- - 予の子
- - 槐の子
- - 芒の子
- 不降 - 洩の子
- - 不降の弟
胤甲 - 扃の子
孔甲 (不詳) - 不降の子、廑の従兄弟
- - 孔甲の子
- - 皐の子
履癸 - 発の子

1. ^ 「康」=「」。

文字[編集]

殷の甲骨文字の様な文字体系を所持していたかは未だ不明であるが、考古学者の徐中舒が、巴蜀文字中国語版を夏文字の名残りなのではないかとする見解を出し、更に徐朝龍は著書『長江文明の発見』に於いて以下の様なシナリオ・仮説を提出している[22][23]

良渚文化は稲作都市文明を形成していた。1000年ほどの繁栄を経て、洪水でこの文化は崩壊する。良渚文化集団の一部は北上し、黄河中流域で夏王朝を興した。この変遷過程で、良渚文化に誕生していた図像文字絵文字グラフィティ)は様々な習合を経て北方の黄河中流域に持ち込まれ、一度は夏王朝の文字となり、そこで甲骨文字と接触した[注釈 4]

やがて夏王朝は支配下に在った東夷后羿(こうげい)部族に倒される。夏王朝の遺族の一部は北西に逃れ(下記匈奴参照)、後四川盆地に移住し、三星堆文化(古蜀国)を築いた。のち良渚文字は、族や族によって加工され、巴蜀文字となった。

名称・呼称[編集]

「夏」という王朝名は後世の呼称である。

墨子」では「夏」の通仮字として「雅」を当てている。

漢字学者の藤堂明保は、「夏」の字を甲骨文字・金文からの形成の変遷を分析した上で、「大きい人(鎧をつけた大柄なひと)」という美称ではないかとの説を提出している[24]


倭国との関連[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 紀元前2000年頃からとする説もある。
  2. ^ 現代のミャオ族と、先史時代の伝説に記載された三苗や、楚や呉を構成した民族との関連性はまだ確定していない[要出典]
  3. ^ 黎族ミャオ族の祖先といわれる[要出典]
  4. ^ 松岡正剛はこの二種文字の接触及び衝突を「文字戦争」と呼んでいる[23]

出典[編集]

  1. ^ 古代史”. www.gov.cn. 中华人民共和国年鉴 (2021年4月9日). 2022年3月15日閲覧。
  2. ^ 西江清高「先史時代から初期王朝時代」『中国史 1』山川出版社〈世界歴史大系〉、2000年10月、61頁。 
  3. ^ 飯島武次『中国考古学概論』同成社、2003年、419頁。 
  4. ^ 工藤元男 著「長江文明と黄河文明」、並木頼壽; 杉山文彦 編『中国の歴史を知るための60章』明石書店〈エリア・スタディーズ〉、2011年1月、17頁。 
  5. ^ a b 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年、75-78頁。 
  6. ^ 宮本一夫 2005, pp. 307–366p.
  7. ^ 甘懐真 (2009年6月). “東北亞古代的移民與王權發展:以樂浪郡成立為中心” (PDF). 成大歴史學報 (国立成功大学) (36號): p. 79. オリジナルの2020年2月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200216221821/http://www.his.ncku.edu.tw/chinese/uploadeds/364.pdf 
  8. ^ 落合敦思(2015)『殷 中国史最古の王朝』中央公論社
  9. ^ “Outburst flood at 1920 BCE supports historicity of China’s Great Flood and the Xia dynasty” (英語). Science 353 (6299): pp. 579-582. (2016-08-05). doi:10.1126/science.aaf0842. http://science.sciencemag.org/content/353/6299/579 2016年8月5日閲覧。. 
  10. ^ Greshko, Michael文、高野夏美訳 (2016年8月9日). “解説:黄河に古代の大洪水跡、伝説の王朝が実在? 「ノアの大洪水に相当するほど重要」と研究者、中国最古の夏王朝の裏づけか”. ナショナル ジオグラフィック 日本版. http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/a/080800048/ 2016年9月9日閲覧。 
  11. ^ Sheridan, Kerry (2016年8月5日). “中国・伝説の大洪水、初の証拠を発見 文明史書き換えか” (日本語). AFP. https://www.afpbb.com/articles/-/3096402 2016年9月9日閲覧。 
  12. ^ 張世超 1996, pp. 3394–5.
  13. ^ 季旭昇 2014, pp. 955–6.
  14. ^ 林志強等 2017, p. 21.
  15. ^ 劉釗 2006, pp. 23–4.
  16. ^ 『NHKスペシャル 中国文明の謎第2集 漢字誕生 王朝交代の秘密』 2012年、3:98-
  17. ^ 劉ウェイ編 2006 [要ページ番号] ほか[要出典]
  18. ^ a b 劉ウェイ編 2006 [要ページ番号]
  19. ^ 岡田英弘 2004, p. 46
  20. ^ 内田吟風ほか訳注 1971 [要ページ番号]
  21. ^ 後漢書六夷伝のうち南匈奴伝 2009年9月16日閲覧 [リンク切れ]
  22. ^ 徐朝竜 1998 [要ページ番号]
  23. ^ a b 松岡正剛 (2001年7月9日). “第三百三十一夜 徐朝龍 長江文明の発見”. 松岡正剛の千夜千冊. 2009年9月20日閲覧。
  24. ^ 藤堂明保 2006 [要ページ番号]

史書[編集]

参考文献[編集]

  • 劉ウェイ 編『図説中国文明史 1 先史 文明への胎動』稲畑耕一郎監修、創元社、2006年11月。ISBN 978-4-422-20252-5 
  • 『騎馬民族史 - 正史北狄伝 1』内田吟風ほか訳注、平凡社東洋文庫 197〉、1971年。ISBN 978-4-582-80197-2全国書誌番号:73019715 
  • 岡田英弘『倭国 - 東アジア世界の中で』中央公論社中公新書 482〉、1977年。ISBN 978-4-12-100482-6全国書誌番号:77011846 
  • 岡田英弘『中国文明の歴史』講談社講談社現代新書 1761〉、2004年12月。ISBN 978-4-06-149761-0 
  • 岳南『千年学案 - 夏商周断代工程紀実』。 
上記の日本語訳:岳南『夏王朝は幻ではなかった - 1200年遡った中国文明史の起源』朱建栄、加藤優子訳、柏書房、2005年5月。ISBN 978-4-7601-2729-0 
  • 藤堂明保『漢字の起源』講談社〈講談社学術文庫 1792〉、2006年11月。ISBN 978-4-06-159792-1 
  • 宮本一夫『中国の歴史1 神話から歴史へ 神話時代 夏王朝』講談社、2005年。ISBN 4-0627-4051-6 
  • 徐朝竜『長江文明の発見 - 中国古代の謎に迫る』角川書店〈角川選書 290〉、1998年2月。ISBN 978-4-04-703290-3 
  • 張世超; 孫凌安; 金国泰; 馬如森 (1996). 金文形義通解. 京都: 中文出版社 
  • 劉釗 (2006). 古文字構形学. 福州: 福建人民出版社. ISBN 7-211-05215-5 
  • 季旭昇 (2014). 説文新証. 台北: 芸文印書館. ISBN 978-957-520-168-5 
  • 林志強等 (2017). 《文源》評注. 北京: 中国社会科学出版社. ISBN 978-7-5203-0419-1 

関連書籍[編集]

  • 岡村秀典『夏王朝 - 中国文明の原像』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年。ISBN 978-4-06-159829-4 
  • 貝塚茂樹伊藤道治『古代中国』(第四刷)〈講談社学術文庫〉、2001年。ISBN 4-06-159419-2 
  • 松丸道雄、永田英正『中国文明の成立』講談社、1985年。ISBN 4-06-188505-7 
  • 『苗族民話集 中国の口承文芸2』村松一弥 編訳、平凡社〈東洋文庫〉、2003年。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]